伝えたいこと。湧き上がってくるもの。
例えば、心療内科に通っている人間がいるとする。
ある人が彼のことを、単に社会から逃げているだけだ、仮病をつかってるのだ、と言う。
果たしてそうなんだろうか。
彼は彼にしかわからない過去と現状と環境と未来に囲まれて生きていて、周りの人間は誰も彼と同じ境遇にいるわけではない。彼の問題を、彼の生まれつきの気質を伴った視点で見ることなど、誰もできない。
それでも周囲の人間が、あるいはほとんど無関係の人間が、彼の苦痛を切り捨てていいのだろうか。
そんな権利があるのだろうか。
ツイッターなんかで「疲れた」「寝ていない」「仕事が終わらない」「忙しい」とアピールする人は、見下される風潮がある。仕事が終わらないのも、そのために眠れないのも、体調を崩すのも、すべて自己管理がなっていないからでしょう、と。
じゃあ、そうやって批判している人間は、そういうことをまったくつぶやかないのか。誰かに漏らすこともないのか。自分と親しい人が同じようなことを言っていたら、同じように見下すのか。
本当に自己管理がなっていないからなのかどうか、何を見たら判断できるのだろう。何をもって判断しているんだろう。
その判断は常に公平なのだろうか。
何か一つの言葉でくくられた集団があるとして、それでも個々が辿ってきた道のりは当然すべて違うのだから、その集団に属するものがすべて同一だとは言えない。なのに、くくっている「言葉」だけで判断するのは違うだろう。
見えているのは限られたごく一部の情報でしかないのに、さもすべてを知っているかのように何かを断言するのは、時として傲慢な態度となる。当人にはそれがわからない。それを良しと判断しているから。
ただ「眺める」だけでいいじゃないか。
事実は事実として認めながら、その裏に容易に窺い知ることのできない物語が隠れていることを意識に留めておく。
先入観にとらわれずに、ぼんやりと全体を見渡すように眺めているだけで。
判断は、切り分けは、本当に必要なときだけすればいい。
切り分ければ、必ず何かが漏れる。
漏れた何かに責任を持てるほどの覚悟と力がない限り、切り分けはすべきじゃない。
そんなことをどこかで常に思っているから、
私はたいてい、傍観者。
シャッターを押すことで世界を少し肯定することができるなら、
私は、世界を肯定し続ける術を探しているのかもしれない。
さて、一人暮らしを始めてからもうすぐ一年です。
いやほんとに、あっという間の一年だったー。
日々やるべきことをひたすら積み上げて行くのに必死で、気づいたら一年、といった感じ。それだけ充実していたということだよね。だって、あれもこれもそれも、ぜんぶが詰まった年だったんだよ!
今まで何となく撮ってきた写真を本格的に学んで、知らなかったこと、目から鱗のことばかり。覚えたいこと、覚えなきゃいけないこと、届きたいもの、届けたいもの、やるべきこと、やりたいこと、今までのこと、これからのこと…。そんなことに溢れた時間だったな。
きっと、これからの一年も中身の濃いものになるんだろう。濃いものにしたいな、うん。
最近は、海へ心が向かっています。今の住処からは比較的鎌倉が近いのだけど、それよりもやっぱり九十九里とかのどーんと開けた、ひとけの少ない海の方が好きみたい。
月に一回は、どこかの海に行くのが目標です。
…って考えると、私にとっての「写真」って、どこかへ行くための口実のような気もしてきた(笑)。
旅をしながら写真を撮って文章なんか書いちゃったりして、そういうので食べていければ最高だな。どこかでそういうの募集してないかな!
プロフィール
HN:
KANA
性別:
非公開
自己紹介:
日本写真芸術専門学校在籍。
主な使用カメラ:NIKON U2 , NIKON D7000 , HASSELBLAD 503cx
植物と光と陰を撮るのが好きです。
主な使用カメラ:NIKON U2 , NIKON D7000 , HASSELBLAD 503cx
植物と光と陰を撮るのが好きです。
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